【書評】『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗(著)

今回は伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を紹介します。

この本を読んだのは、武田鉄矢さんのラジオ番組で紹介されていたのがきっかけです。

本書を読むことで、目の見えない人の感覚を通して、人間の身体の凄さを理解することができました。

目次

人間は、ほとんどの情報を視覚から得ている

私たちは日々、五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)からたくさんの情報を得て生きている。

なかでも視覚は特権的な地位を占め、人間が外界から得る情報の8割〜9割は視覚に由来すると言われている。

では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

本書では、障害者を「健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていない物を使っている人」と定義した上で、障害者の体を知ることで、体の潜在的な可能性を捉えることを試みています。

脳の使い方の違い

たぶん脳の中にはスペースがありますよね。

見える人だと、そこがスーパーや通る人だとかで埋まっているんだけど、僕らの場合はそこが空いていて、見える人のようには使っていない。

でもそのスペースをなんとか使おうとしていて、情報と情報を結びつけていくので、そういったイメージができてくるんでしょうね。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見える人は、視覚から入ってくる情報が多すぎて、余計な情報の処理にも脳を使用して余裕がない状態になっているようですね。

目の見えない人は、そのスペースを視覚以外の身体から得られる情報で埋めることで状況判断を行っているイメージでしょうか。

視覚刺激に翻弄される人々

資本主義システムが過剰な視覚刺激を原動力にして回っていることは言うまでもないでしょう。

それを否定するのは簡単ではないし、するつもりはありませんが、都市において、私たちがこの振り付け装置に踊らされがちなのは事実です。

最近ではむしろ、パソコンのデスクトップやスマートフォンの画面上に、こうしたトリガーは増殖しているかもしれません。

仕事をするつもりでパソコンを開いたら買い物をしていた・・・よくあることです。

私たちは日々、軽い記憶喪失に見舞われています。いったい、私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか分かりません。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

現代は、パソコン・スマートフォンなどから大量の情報を目にする時代です。

こういった視覚情報が、人間の購買行動に影響しているのは深く頷けます。

これが行き過ぎた結果、欲しくないものを買わされている側面さえあるように思えます。

目の見えない人の思考プロセス

そもそも、見えない人は容易にメモを取ることができません。

そのため必然的に多くのことを記憶しなければならない。

部屋の中のすべての物の配置はもちろんのこと、駅までの道に何があるか、職場のテーブルのレイアウトなど、あらゆることを記憶しなければならない。

待ち合わせの場所や時間なら点字や音声録音やキーボードの入力でメモを取ることもできますが、空間の情報そのものはメモすることができない。

見える人が目で見て済ませていることの多くを、見えない人は記憶で補っている。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

確かに、目の見える人は見れば分かることを記憶しようとは思いません。

一方で、目の見えない人はこれらの情報を外部記憶する手段がないため記憶でこれを補うことになりますが、空間把握のためには膨大な情報が必要になることが想像されます。

こういったことからも、本来視覚情報が入る脳の領域に別の情報が入ることで、記憶に関して別の能力が発揮されているように感じます。

「進化」と「リハビリ」との類似点

事故や病気によってなんらかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。

生物は、例えば、歩くために使っていた前脚を飛ぶために使えるように作り替えました。

同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。

前者は何千万年、何億年、後者は数ヶ月や数年とかかる時間はだいぶ違いますが、どちらも同じ、器官から予想もしなかったような能力を取り出しているのです。

こうした柔軟な「器官観」が、障害を抱えた人と接する上ではヒントになるのではないかと思う。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

体の器官を失うことと、進化には共通点があると著者は着目します。

失われた器官の機能を残された器官で補おうとすることは、必要な能力を身につけるために進化していくことと類似している。

目の見えない人のエピソードを本書で読むたびに、人間には生きるための高い適応能力が備わっていることを感じさせられました。

障害に対するイメージの変遷

個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされている。

現代まで通じる大量生産、大量消費の時代が始まる時期、均一な製品をいかに早くいかに大量に製造できるかが求められるようになった。

その結果、労働の内容も画一化されていく。車を作るのに、Aさんが作ったのと、Bさんが作ったのでは出来上がりが違うのは困る。

「誰が作っても同じ」であることが必要であり、それは「交換可能な労働力」を意味する。

こうして労働が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。

それ以前の社会では、障害者には障害者にできる仕事が割り当てられていた。

ところが「見えないからできること」ではなく「見えないからできないこと」に注目が集まるようになってしまった。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

障害に対するイメージは、工業発展と労働の画一化が背景にあるというのは驚きました。

「自分にできることで社会に貢献する」ことではなく「全ての人が同じことができること」が求められるようになっていく。

やや論点はずれますが、均一化が求められるという意味では、日本社会の空気感はこれと共通すると読み感じました。

「個人モデル」から「社会モデル」の転換

こうした障害のイメージに対しては、1980年頃から、世界各国で疑問が突きつけられるようになる。

さまざまな論争や事件の詳細な歴史はここでは記しませんが、「個人のできなさ」とは違う形で障害を捉える考え方が模索された。

こうした運動は「障害学」という新しい学問をも生み出しました。

そして30年を経て2011年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されている。

「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。

つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活状の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。

従来の考え方では、障害は個人に属していた。

ところが、新しい考え方では、障害の原因は社会の側にあるとされた。

見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だというわけです。

障害学の言葉で言えば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こった。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

こうした障害に対する社会の捉え方は、徐々に転換していくことになります。

社会の側にある壁によって不自由さを感じることこそが障害であるという考え方に変わっていきました。

よく聞く「バリアフリー」という言葉も、この考え方に基づき生まれた言葉なのでしょうか。

一方で、筆者は「社会の側に障害があるからといって、それを端から全部なくしていけばいいという物ではない」とも語っています。

違いを生かすということ

パスタソースの例でいえば、もちろん味を選べた方がいいのは当然です。

しかし、見えない人と見えるひとの経験が100%同じなることはありません。

見える人がパックのビジュアルから想像する「味」と、見えない人が例えばパックの切り込みで理解する「味」は、決して同じものにはならないでしょう。

違いを無くそうとするのではなく、違いを生かして楽しんだりする知恵の方が大切である場合もある。

いずれにせよ、「味がわかるようにするのがいいだろう」と健常者が見えない人の価値観を一方的に決めつけるが一番よくないことです。

言葉による美術鑑賞の実践がそうであったように、「見えないこと」が触媒となるような、そういうアイデアに満ちた社会を目指す必要があるのではないか。

引用元:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

目の見えない人が、パスタソースを買おうとした時に何が起こるか。

本書ではこの例が特徴的に描かれていますが、この事例から障害の問題がよく分かると感じました。

商品パッケージや味の説明文の情報を基に、複数の選択肢の中からソースを選ぶことは目の見えない人にはできません。

一方で、目の見えない人向けに絵画の解説を言語で行う美術鑑賞が存在するように、視覚によらない楽しみ方は工夫次第で実現することができます。

目の見える人と同じ体験を可能にすることだけが重要なのではなく、それぞれの違いを生かした楽しみ方をできるようにすることが重要ではないかと筆者は問いかけています。

全体を通した感想

障害のイメージをいい意味で転換できる本だと感じました。

障害というと、社会のバリアや障害者の生活の困難さなどが語られることが多いですが、本書はフラットな視点で目の見えない人の感覚や考え方に着目しています。

例えば、情報の視点。人間は情報の多くを視覚から入手しています。

そのため、目の見えない人は、扱える情報が少なくなるわけですが、それが必ずしもネガティブなことではないと著者は言います。

情報の少なさは、見方によっては余計な情報に惑わされないとも言えますし、これは物事の本質を捉えることに寄与しているとも言えます。

特に本書からは、人間が視覚情報に踊らされる生き物であることがはっきりと分かります。

例えば、目の見えない人は、視覚情報がないため、バーゲンセールや宣伝情報などが遮断されています。

そのため、衝動買いの原因となる情報が入ってこないことで、当初買う予定だったものしか買いません。

逆に、目の見えている人は、したいこと、買いたいものを歪められており、欲望を社会にコントロールされているという見方さえできます。

パソコンやスマートフォンで大量の情報が流れてくる現代社会においては、「意識的に情報を減らすこと」「自分をしっかり持つこと」が必要であると改めて考えるきっかけとなりました。

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この記事を書いた人

30代サラリーマン | 本業に未来を感じられず、2022年5月〜仮想通貨ブログ開始 | Web3.0 | NFT | 会社に頼らない働き方 | ネットで稼げる力を身につけるため奮闘中 | 未経験から0→1を達成する過程を発信

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